入れ歯と時速120キロのセルシオ、そしてゴキブリ。
まれに深夜まで作業が延び、終電を逃してしまうことがある。
したがって、帰りはタクシーになる。
会社から家までは23区を横断する形になり、首都高速を半分以上回ることになる。
深夜の高速道路は、昼間の顔と違って適切なスピードで東京観光を楽しむことが出来る。
僕の乗る場所には、まず六本木ヒルズが見えて、それから電気を半分落とした東京タワー、
新橋の高層ビル群を抜けて、銀座、日本橋を越えて、浅草へと回るルートになる。
深夜のちょっとした東京観光。
東京に住みながら日々思うのは、実はこのコースが一番の観光ルートではないか、なんて思う。
夜だけが知っている東京観光。所要時間30分の間に、観光客の見ない、別の観光地が存在する。
極力タクシーの中ではラジオをつけてもらって、運転手との会話を避けて車窓を眺めるのが好きだ。
昨日もそんな感じでタクシーを止めて、乗り込むことにした。
乗り込んだ車はトヨタのセルシオ。世界が誇る高級車。
僕はこの手の高級車とは全くいっていいほど関連性がなく、常に縁遠いものと感じてきた。
運良く乗れたセルシオは、まさに後部座席の人間にはもってこい。
振動をほとんど感じさせないし、窓の騒音もエンジンの雑音も遮断してくれる。
しかし、問題だったのが運転手。
年齢の頃はとうに70を超えているであろう運転手は、行き先を伝えてもおぼろげで、
伝えた道と逆の方向に走らせようとする。
僕も嫌味な人間だもので一言「車は、いい車ですね」とチクリと言ってやった。
すると、その老人は自慢気に
「えぇ、そうでしょう。なにせ世界のトヨタの最高級車ですから!」
と鼻息荒げに語りはじめる。
僕はあきれてラジオをつけてもらい、ぼんやりとタバコを吸いながら外を見るけど、
違和感のある音に、何かせわしない気分になって運転席のほうを見る。
すると老人は入れ歯をしていないせいか、口をくちゃくちゃしながら運転しているのである。
しかも、先の話に調子に乗ったのか「この車、加速力もいいんですよ」なんて言いながら
いきなりアクセルを踏み出すものだからたまったものじゃない。
首都高の入りくねった道路で時速120キロ。まさに生きた心地のしないドライブである。
その間、無茶な車線変更を幾度となく繰り返し、後続の車にはフォーンで何度も鳴らされ、
渋滞に差しかかろうとすると急ブレーキを踏むのである。まさにセルシオ台無し。
生きた心地のしないまま家につくと、どっと疲れが出てきた。
寝る前に居間でビールを飲みながらテレビを見ていると、なにやら黒いガサゴソする陰が。
ゴキブリである。
本来なら殺虫剤で応戦するものの、遠くの壁で慌しく動くゴキブリが、先ほどのセルシオが何か一緒に思えてきたのだ。そして、もう一度思い出せば、あの爺の顔は真正面に必死だった気がする。もちろん、タクシーの運転手としてはどうかと思うが、その必死の顔もまたクチャクチャなシワ顔で何かにらめなくなってきた。
そう考えてくると、普段ならゴキブリをゴキジェットで殺してしまうのだが、
そっと窓を開けてゴキブリを追い払うことにした。虫嫌いの僕にとってはかなりの勇気だったのだ。
ゴキブリは窓からこそこそを逃げ出て、そのまま闇へと消えていった。
しかし今朝、母の大声で目が覚めた。
彼女はゴキブリを居間で発見したらしい。
今度は間違ってもセルシオだから、といってウキウキはしない。