2046  パンツ一枚は欲しい恋愛観。 | えのきさんの痴漢日記

2046  パンツ一枚は欲しい恋愛観。

先週の水曜日、いつも通うバーでバーテンダーと会話をしていた。
彼女は僕よりいくぶんか若く、そして美人である。
彼女は半年前に一緒に住んでいた恋人と別れを告げて、現在は子犬と2人で暮らしている。
彼女の周りには多くの気のよいの友達がいて、決して寂しいことはなさそうだ。
なにしろ、彼女は美人で頭のいい人間である。周りの男の子が放っておくわけがないはず。彼女のスケジュールは充実しているのだろう、僕にはうらやましい話である。
そこで、毎週のように僕はちょっかいを出す。
「ねぇ、新しい彼氏できないの?」
と。毎週聞いているわけだから、その進捗状況も知っているわけで、僕は毎週とっても無駄で野暮な質問をする。
そして、いつものように返答をする。挨拶を交わすように、何事もなかったように。
「出来るわけないじゃない、欲しいくらいよ」と。
酒も何杯か入ったときに、彼女に聞いてみる。
「寂しくないの?」
「そりゃ、寂しいわ。でも意外と本当に好きだと思うのは別れてからで、それからしばらく経てば意外とすっきりするものだし」
なるほど、彼女はよく出来ている、と僕はズブロッカでぼんやりした頭で思った。

僕自身も3年以上ある人の呪縛にかかっていて、まるで身動きのとれない状況だった。
どこかでその人を捜して、どこかでその人が帰ってくることを望んでいた。
結局は帰ってこないのもわかっているし、それはもうどうしようもないこと。お互いに別の方向へ進み、僕は今こうやって恋人が出来て、仕事もしている。最近ではその方向で時間をとられて、彼女のことも忘れてしまった。いや、やっと忘れることができた。
でも、時々思う。
彼女はいったい何をしているのだろうか?
もうきっと探すこともないけども、もうきっと会うこともないけども、あのときの僕の記憶もどこかへいってしまうのだろうか。


そんな長い前置きで、2046を見たレビューを。
ウォン・カーウァイの映画はみんなが言うほどスタイリッシュでお洒落な映画ではない。それは前作の「花様年華」もそうだったしゲイの激情を描いた「ブエノスアイレス」でも同様。この人の恋愛における世界観はどれもこれも、悲しいものである。
今回も、同様。いや、それ以上。
「花様年華」のアンサーストーリーというべき作品である。SF映画でもないし、キムタク映画でもない。重要な要素ではあるけども、それを見るだけであれば予告編で十分な作品である。
生涯最高の恋愛(「花様年華」をご参照)にうち破れた主人公が香港に戻ってきてからのお話。酒を飲んで、女をはべらして、適当な文章で生計を立てる生活。どこもかしこも自暴自棄で、前作のようなプラトニックな感じはどこにもない。すぐセックスしちゃうし、野蛮でお下品。
んでも、このチョビヒゲ(レスリー兄さん)にはまる女は数知れず。相手の女も何かしら恋愛のトラウマをもっていて、どこか壊れてしまう。人は恋をすると臆病になる。その数を経験すればするほど、臆病で卑怯になる。
もっと器用に恋愛を出来る人もいるかもしれない。
でも、僕はこの映画を見てそう思う。誰もが卑怯になり臆病になる。
3度目、4度目の恋愛は無知で無垢だった頃の恋愛をする活力を失ってしまう。年を取るというのはそういうことだ。それが人間として当然のこと。
でも、大人の臆病な恋愛ってキライじゃない。どこかみんな求めながらも探ってしまう。嘘か真かわからない会話のやりとり。ときには野蛮でときには純真。
あるシーンでチョビヒゲ(男前)はこう言う。
「だって僕らは飲み仲間じゃないか、当然のことだよ」
これは最大の虚栄なんだろうな、と。
自己防衛が過ぎれば、人を傷つけることになる、しかも彼はそれをわかっていて確信犯的に発言をする。
そして、僕らはチョビヒゲのように成長していくのだ。様々な壁と防御策をもって。裸の恋愛なんてもうできない。裸になるのはお風呂に入るときと、セックスをするときだけ。
ほかでみんなは裸になれるのだろうか?

んでも、音楽はいい。相変わらず何を言われても僕はウォン・カーウァイとタランティーノの選曲には虜なのである。抱かれてもいいくらいである。